自己紹介 〜 荒木裕也 〜

BCF代表トレーナー 荒木裕也の経歴

愛知県東海市にある現役看護師が運営するフィットネスジム
【BEHAVIOR CHANGE FITNESS(ビヘイビア チェンジ フィットネス):BCF】

代表トレーナーの荒木裕也です。

本日のテーマは自己紹介です。
誰が興味あんねん!と突っ込まれそうですが、そう言わずに最後までお付き合い下さい。

僕は「アスレティックトレーナー(AT)」「看護師」「鍼灸師」の3つの資格を持っています。おそらく日本全国探してもこんな変わり者はいないんじゃないでしょうか。
前回のブログで、なぜ看護師がジムを作るのかをお話しさせてもらいましたが、今回は荒木裕也はどこで生まれどこで育ち、どのような経歴を経て今に至ったのかを今回はお話しさせてもらいたいと思います。それではどうぞ。

誕生〜高校卒業まで

出生地は兵庫県神戸市です。
小学校入学前まで神戸市垂水区で暮らしており、滝の茶屋保育園というところに通っていました。

5歳の時に両親の離婚を機に、母親の実家のある岡山県備前市というのどかな田舎での生活が始まります。東鶴山小学校というところに通っており、小学4年生からスポーツ少年団でソフトボールを始めました。当時は身長もクラスで1番大きく、運動もできたのでエースで4番も任されていました。このころ少年ジャンプで連載されていた『真島クンすっ飛ばす』という格闘漫画に影響を受け、筋肉に興味を持ち自宅でトレーニングを始めました。やっていたことといえば拳立て伏せ(腕立て伏せのとき手のひらをパーではなくグーで行う方法)と壁に逆立ちしての腕立て伏せ(ショルダープレスのような運動)を毎日繰り返していました。その影響もあってか肩は強くなり、ボールを投げるスピードや距離が格段にアップしたのが嬉しかったのを覚えています。

中学校はスクールバスで40分かかる場所にある、地元の備前中学校に入学し軟式野球部に所属しました。ここの野球部は練習が厳しいことで有名な学校で、とにかく毎日走らされていました。ここでの厳しい練習のおかげでその後の身体の基盤ができたと思います。この頃も比較的身体が大きく、技術こそありませんでしたが身体能力は高かったので、そこでカバーをしながらチームの中軸としてプレーをしていました。中学時代は県大会で優勝もし、将来はプロ野球選手になることを本気で夢見ていました。

中学卒業後は野球の強豪校でもある岡山南高校に入学し、硬式野球部に所属しました。
岡山南高校野球部のOBといえば、元読売ジャイアンツでも活躍された犠打世界記録保持者の川相昌弘さんや、中日・ヤクルト・オリックス・ロッテで打撃コーチを務められた高畠導宏さん、そして、昨年10年間のプロ野球人生にピリオドを打ち、中日ドラゴンズを引退した同級生の野本圭がいます。
野球部には3学年で100人弱の部員がおり、当時の公立高校には珍しく専属トレーナーとウエイトトレーニングジムのあるとても恵まれた環境でした。この時「トレーナー」という職業の存在を初めて知り、トレーニングとトレーナーの仕事に興味を持つようになりました。先ほど紹介した元中日ドラゴンズの野本圭とは同じ外野のポジションでもあり、彼のプレーを見て「あぁ、こういうやつがプロの世界に行くんだな」と肌で感じ、僕のプロ野球選手になるという夢は静かに終わりを迎えました。笑
高校時代はレギュラーにはなれず、最後の夏はメンバーからも外れスタンドからの応援となりました。
練習試合でもほぼ負け知らずで、周囲からも間違いなく甲子園に行けるチームと期待されていましたが結果は2回戦で敗退。甲子園には行くことができませんでしたね。
高校卒業後は大学進学も考えましたが、母子家庭で金銭的に負担をかけたくなかったので、野球が続けられる地元の企業へ就職することにしました。今思えば奨学金を借りれば大学にも行けたなぁと思うこともありますが、今の人生がとても幸せなので全く後悔はしていません。
余談ですが高校3年生の時には生徒会長もしました。学校が100周年の年だったので学校の歴史に残る生徒会長になってやる!といった軽い気持ちで立候補しました。笑

高校卒業後〜看護師(大阪)まで

卒業後は地元の三菱自動車のグループ会社へ就職しました。軟式野球部に力を入れている会社で、そこでもピッチャーとして野球を続けさせてもらいました。仕事は残業もほとんどなく定時で帰れたので、仕事帰りに市営のスポーツジムにも通って筋トレの日々を送ります。
社会人2年目のある日、ふと「このまま今の会社で定年まで働いていて本当にいいのだろうか?まだまだ何かにチャレンジできるんじゃないか」と思うようになり、高校時代にお世話になったトレーナーさんのことを思い出しました。当時野球部の1学年上の先輩がスポーツトレーナーの学校に通っていたので色々と話を聞き、自分もスポーツトレーナーになってみたい!と思うようになってきました。野球が大好きだったので、プロ野球のトレーナーになる新たな目標ができた瞬間でもあります。自分でも色々と調べてみると、地元の岡山県にはスポーツトレーナーの養成学校がなく、大阪にたくさん学校があることを知りました。当時大阪に住んでいた先輩にも相談しながら、大阪ハイテクノロジー専門学校のスポーツトレーナー学科を受験することを決めます。
高校卒業後3年間お世話になった会社を辞め、3年間で必死に貯めた貯金200万円を学費にあて、22歳から大阪でのプロ野球のトレーナーを目指した第2の人生が始まりました。
スポーツトレーナー学科では《アスレティックトレーナー (AT)》の資格取得を目指します。ATは当時は合格率数%しかない、国内で最も難関なスポーツトレーナーの資格でもありました。当時はトレーナーとしてオリンピックや国際大会などに帯同するにはATの資格は必須で、プロ野球のトレーナーになるにもATは最低限持っておかなければいけない資格でもありました。
ATを取得するには試験だけでなく、決められた時間の現場実習が必須です。僕もアメリカンフットボールや野球、テニスなどの現場実習へ行きました。社会人になってからの勉強は本当に楽しくて、毎日授業や家で本を読んで勉強するのが楽しかったです。
そんな努力が実を結び、超難関のアスレティックトレーナーの資格を現役で見事一発合格することができました。(確かATの受験資格は4年間で2回あり、過去に初回で合格した人はいなかったのでえらく褒められました。)

学生トレーナーとしてスポーツ現場に出たり、トレーナーの先輩方に話を聞くと、どうやら一流のトレーナーになるにはATの資格だけでは不十分だということを知りました。特に将来プロ野球のトレーナーとして活躍したいのであれば”治療”ができる資格があると重宝されるらしい、ということを聞きました。その資格とは「鍼灸師」「柔道整復師」「按摩マッサージ指圧師」「理学療法士」といった国家資格です。僕はこの中で、唯一自分の手以外で治療ができる「鍼灸師」の資格を新たなトレーナーの武器の1つとして取得することを決めます。(ここから奨学金の借金生活が始まります。泣)

スポーツトレーナー学科を卒業した後は、そのまま同校の3年制の鍼灸師学科(夜間部)に入学しました。この3年間では学業以外にも、中山製鋼野球クラブ(社会人硬式野球のクラブチーム)でのトレーナー活動、オリックスバッファローズの少年野球アカデミーのサポートスタッフなど、野球の現場で様々な経験を積んできました。プロ野球の世界へは実力と同じくらいコネクションが大事なので、プロ野球や社会人野球の第一線で活躍されていたトレーナーの先輩方にもたくさん話を聞きに行きました。そんな忙しい3年間を過ごし、鍼灸師の国家資格も無事取得しました。AT &鍼灸師は当時でも貴重で、先生や先輩からも有名企業チームのトレーナー先はいくつも紹介されましたが、鍼灸師の資格取得時点では、僕の中でまだどこで活動するかは決めかねていました。

そんな中、僕の人生観を文字通り180度変えてしまう出来事が起こります。
2011年3月11日に起きた東日本大震災です。
あの震災で僕の中で何かが音を立てていくのを感じました。震災で僕自身には何も被害はありませんでしたが、自分の”生きる意味”を深く考えさせられました。自分は何でこの世に生まれてきたのだろう、何の為にこの先行きていくのだろう。何度も自問自答しました。
そこで出した答えが、今までのように自分の夢を追いかけていく人生ではなく、もっと医療の現場に身を置き、人の命に関わり、傷ついた心を支えることができる仕事をすると心に決めました。そこで選んだのが現在の看護師の道です。

ATと鍼灸師の資格を取って今更何で看護師なんだ、と本当にたくさんの人に言われました。自分自身、今までに看護師になるなんて夢にも思っていませんでしたが、もう迷いはありません。鍼灸師学科を卒業してからの1年間は必死で看護学校の受験勉強をし、28歳で行岡医学技術専門学校の看護学科に入学し、第3の人生が始まりました。
またまた余談ですが、看護学校の受験の年にトレーナーでお世話になった方から電話があり「某プロ野球チームでトレーナーを探しているからやってみないか?またと無いチャンスだぞ」とお誘いを受けました。もちろん看護師になると心に決めた後ですので、その場で丁寧にお断りさせていただきましたが、人生って本当に面白いなあと思いましたね。

看護学校の3年間は朝から夕方までの授業に病院実習もあり、想像以上ににハードな毎日でした。その間もAT、鍼灸師としての勉強や経験は続けたいと思っていたので、クリニックで脳梗塞や骨折の方に対する鍼灸治療や、リハビリ施設でのトレーニング、リハビリ業務を看護学生をしながら3年間続けてきました。この3年間では本当にたくさんの勉強と経験を積むことができたと思います。
これまた余談ですが、妻のMASAYOとは看護学校で出会いました。看護師になって1番良かったことは、看護師を目指したことで妻と出会い結婚できたことですね。

看護学校を卒業後は大阪市内の病院に就職しました。看護師2年目に現在の妻と結婚。
大阪では小児内科(主に血液内科と神経内科の混合病棟。白血病や脳腫瘍など)と成人の脳外科(脳出血の術後など)で勤務しました。

看護師(愛知)〜現在

看護師3年目からは家庭の事情で妻の実家のあるの愛知県に引っ越し、現在は東海市に在住しています。こちらに引っ越してきてからは、回復期リハビリテーション病院に勤務し、脳梗塞や脳出血、骨折の手術後に入院をしてリハビリに励んでいる患者様の看護をさせてもらっています。
大阪では急性期病院ということもあり、休みも少なく残業も多かった為、仕事から帰ったらヘトヘトになり、休みの日は体を休めることに重点を置いていました。しかし、現在はほぼ定時で上がれることができ、大阪の病院よりも休みも多い為、自分の時間をしっかりと取ることができています。その空いた時間を利用して、2018年から近所の整骨院さんの2階スペースを貸していただき、地元のスポーツをしている学生をメインにトレーニングやリハビリ指導を始めました。

これからの時代は、IPS細胞やAI (人工知能)の登場で、医療分野はどんどん進化していくことが予想されます。今まででは治らなかった病気やケガが治る時代もすぐそこまでやってきているのかもしれません。しかし、医療の進歩を期待して、いつまでも「治してもらう」といった受け身の姿勢でいてはいけないと僕は思います。医療は進歩している反面、健康寿命と平均寿命の乖離はどんどん進み、人生最期の10年をほとんどの人が介護が必要な状態になっていると言われています。
看護師をしていて、多くの患者さんと出会い、多くの後悔した声を聞きました。トレーナーをしていても、選手からは「あの時もっとこうしていればケガをしなくて済んだのに・・」と同様に後悔の声をよく聞きます。

看護師をしながらトレーナー活動を再開して強く感じたことは、多くの人がもっと将来のケガや病気の「予防」に対して真剣に考え「効果的な運動を継続」することができれば、5年後10年後に後悔しなくても済むのではないかということです。

今まで何度も人生のターニングポイントを迎えてきました。その度に僕は、自分が後悔しないと思う道に進み、行動を起こしてきました。できるだけ多くの人に将来の病気やケガを「予防」する為の行動変容(behavior change)を起こしてもらいたいと強く思っています。そのサポートをする為にこの夏、愛知県東海市に「BEHAVIOR CHANGE FITNESS」を立ち上げます。

長くなりましたが、荒木裕也がどうやって育ち、どのような価値観をしているのかを少しだけ知ってもらえたのではないでしょうか。僕自身、まだまだ未熟者でこれから多くの方のサポート・応援を受けながらの第4の人生の出発になります。

地域の方々に頼られ愛される、そして困った時はBCFの荒木さんのところに行ってみよう、なんて思われるようなアットホームなジムを作っていきますので、皆様暖かく見守って下さい。

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